ほぼ絶縁状態の母から突然、電話が掛かってきました。
心を殺して(封じ込めて)書きました。
精神的にかなりキツイです。
心も痛いです。
文章も暗くなりました。
読むか読まないか、
「読まない」ことも1つの選択肢です。
あなたがお決めください。
※私の背中を棒で何度も何度も叩き続ける父の、その姿はもはや『鬼』か『悪魔』です。
少なくとも、人間の顔をしていませんでした。
母も同様です。父に付き従い、自身も虐待を行う、その姿はやはり『この世のものとは思えない顔つき』をしていました。その姿はまるで父に服従し配下となった『魔物』そのものです。
母のイラストは、私が母に持つイメージです。
突然の電話
実家とは、ほぼ絶縁状態です。
2020年に父が亡くなるまでは、実家と一切連絡を取っていませんでした。
それが突然、「父が亡くなった」というハガキが届きました。
(実家に現住所を知らせていなかった為、母が私の住所を調べたそうです。)
私は、実家が苦手です。
実家のある土地に足を踏み入れる事も、なんだかとても気が重くて・・・
それでも帰省したのは、帰らなければならない事情があったから。
手続きをしないと父の口座が凍結されてしまうらしい。
そうなると母や弟は「困るだろうな」と思ったから。
心に蓋をして帰りました。
実家には、2時間もいなかった、と思います。
手続きを終えて、すぐに市川市に戻りましたから。
それ以来、実家とは連絡を取っていません。
それが突然の電話。
佐川急便からの電話かと思い、電話番号も確認せず、飛びつくように出ました。
(佐川さんからは事前に電話はなく、時刻通りにパソコンを回収してくれました。)
出たら、母でした。
開口一番。

終活。荷物送っていい?

荷物って何?
心が凍りついています。

服とかバッグとかを作ったんだけど、送ろうと思って。
もし、いらないなら捨てるけど。
母は、何でも手作りするのが趣味です。
「認知症予防にもなる」と言っています。
「捨てる」という言葉に敏感に反応する私。

捨てるくらいなら送ってください。
今、作っているものもあるから、すぐには送れないけど、そのうち送る・・だそうです。
話が終わったんなら、すぐに電話を切りたい。
が、電話を切れる雰囲気ではない。
以前なら、感情に任せて電話を切っていました。
でも今は・・・
母が電話を切るまで待とう・・
なぜか、そんな心持ちになりました。
父が亡くなってから、少しずつ少しずつ、カメさんが歩くような速度で
父からの呪縛や支配から解き放たれていくような感じがしています。
母も、ある意味、被害者だったのかも・・
そう思えるようになりました。
ただ・・・
そうだったとしても
母が私にしたことを私は憶えているし、忘れることはできません。
幼稚園~高校生まで
幼稚園から小学校に上がる頃

今までは幼稚園だったからアレだけど、
これからは…

それから罵詈雑言、暴言などと言い表せないほどの虐待が始まりました。
小学生の頃
忘れられない出来事があります。今でも引きずっています。
3食は食べさせてもらっていたのだけど、ごちそうは…
家族から排除されました。
母から言いがかりをつけられ、食べている途中で ”ごちそう” を取り上げられ、居間から追い出されました。
その時、私が感じたのは
私は ”家族” ではなかった。
血は繋がっている筈だけど、私は ”家族” ではない。
だから食べている途中で(食べ物を)取り上げられ、居間から追い出された。
4人家族だと思っていたけど違った。
私は独り
この時、強烈な悔しさと悲しみと言葉では言い表せないほどの思いがこみ上げてきて涙があふれてきて、一人でずっと泣いていました。
父と母と弟は、私が泣いている時に3人で ”ごちそう” を食べていました。
誰でもいいから、わかる人がいたら教えてほしい。
私だけ、仲間外れにして食べた ”ごちそう” の味は、どれほど美味だったのだろう?

私は殴られ、棒で背中を叩かれ、罵詈雑言を浴びせられ・・それでも4人家族だと信じていました。
でもそれは、”ただの勘違い” だと思い知らされました。
強烈な孤独感を感じた、この日のことを私は忘れることができません。
中学生の頃
学校から家に帰る時、いつもドキドキしていました。
「ただいま」と言って「おかえり」と返事が返ってくる時は大丈夫。
問題なのは、返事が返ってこない時。
居間に入ってカバンを置いてゆっくりしていると、キッチンにいた筈の母が扉をガラガラと開けて私に怒鳴り散らします。
いわれもないことで怒鳴っているので、私は何も言えず。
反論さえできず、黙ったまま母の怒りが収まるのを微動だにせず待ちます。
この時、絶対に母と目を合わせてはいけません。
目を合わせると「なに、その目は!」や「なに、その態度!」と言われて怒りが倍増し頬を引っぱたかれます。
それが毎日。日常茶飯事なので、
キッチンと居間の間にある扉がガラガラッと音がしただけで、心臓が止まります。
心臓が止まるほどドキッとして、鼓動が速くなって、冷や汗が出ます。
この時、私にできることは何もありません。
ただただ、嵐が過ぎ去るのを待つだけ。
母の怒りが収まるまで、2時間でも3時間でも正座をしながら、やり過ごします。
(怒られている時は、”正座をする” のが暗黙のルール)

毎日の出来事です。
努力と諦め。高校生時代の未遂
●小学生の頃に家族から排除されました。
「愛されたい」と願っていたけど、小学校卒業までに愛されず。諦めました。
諦めた、筈なのに
諦めきれていませんでした。
●中学在学中に「愛される」為に努力しました。
努力して、努力して、努力して・・・努力した
結果、愛されることはありませんでした。
中学卒業と同時に実親に愛されることを完全に諦めました。

●高校生の頃
未遂を(記憶では)2回しています。

『荷物を送る』話が終わっても、母の話は延々と続きます。
心残り
終活をしていると心残りがたくさん出てくるようです。
弟と連絡を取れるように
特に何回も言われたのは

弟と連絡を取れるようにしておいて
連絡を取ると言っても、弟は工場で働いていて、夜勤専門。
日勤は家族持ち。夜勤は独身者が勤めるそうです。
弟は独身の為、34歳くらいから20年間ずっと夜勤だそうです。
私は、夜は寝ているので弟とはライフスタイルが合いません。
それを言うと

日曜日は休みだから。
健康のこと
―冷え性―

私が冷え性だから、おまえも冷え性だろ。

指先は冷えるし、指の関節は腫れて、すごく痛いし

えっ、そうなの?

足がむくむんだけど、”むくみ” は全然取れないし、
夜寝ている時に足がつって、ものすごく痛くなるんだよ

へ・・へー、そうなんだ

膝関節も気を付けないといけないよ。
膝が痛いと歩けないから。
最近、膝が痛すぎて歩けない時がある・・・

おまえは足が細いのを自慢していたけど、
足が細いのは全然自慢にならないよ。
足に筋肉つけないと寝たきりになっちゃうんだから。
階段を歩くようにしたりとか…

それは大丈夫。
太ったから。
足に筋肉がついているかは、わからないけど。階段を歩くようにしている。。。
―緑内障(りょくないしょう)―
母は弱視です。
それは私も知っていましたし、何年か前に緑内障を患い手術をした、というのも聞いて知っています。
手術はしたけど、もう無理で段々と見えなくなってきている、そうです。

緑内障は遺伝だから気を付けて。
親戚のおじさんもおばさんも従妹も
みんな緑内障になっているから

!!
そうなの?
親戚に、そんなに緑内障になっている人がいるなんて・・・知りませんでした!
怖・・・
年金について
『年金は繰り下げ受給の方がいい』と口を酸っぱくして何度も言われました。
この時、父の実例を出して話をされました。
父は年金を繰り上げて63歳から受給していた、とのこと。

人の言うことを聞くような人ではなかったから、
『俺は70歳までは生きないんだ』と言って
63歳から受給していた

63歳から受給すると
『65歳から支給される額』の半分になっちゃうから
3万円!

3万円じゃ生活できない

随分説得したんだけど、
全然、人の話を聞かなかったから、
63歳から受給していたんだよ

お父さんに『お前も早くもらえ』って言われたけど、
70歳まで支給を延ばしてもらった
ここで少し驚きました。
父に逆らえなかった筈の母が自分の意見を言えたことに!
それでも父が63歳から受給していたから、それでは生活できずに父の分は母や弟がカバーしていた、とのこと。
食事について
ここでも父の実例を出して話をされました。
父は魚が嫌い。その上、椅子に座りっぱなしで運動もせず。
(実家は時計屋です。時計の修理は椅子に座ったまま行います。)
そんな生活習慣を続けた結果、骨がもろくなり、骨粗鬆症になった。

家の周りを歩くぐらいはしたら?と何度も言ったけど、
人の言葉を一切聞かない人だったから、
家の周りすら全然歩かなかったの。

お肉もお魚も野菜もバランスよく食べた方がいいよ
父は最晩年、車椅子生活でした。
なんだかんだで1時間も母が話すのを聞いていました。
電話を切る際、
母から意外な一言が・・・

ごめんね。1時間も話して
私は母から今まで1度も
「ごめんね」を聞いたことがありません。
終活を考える年齢になると弱くなる?
母から突然の電話があり驚きました。
何より驚いたのは、母の言葉です。
母「荷物を送ってもいい?」
→『~してもいい?』などと今まで一度も言われたことがありません。
話している最中に何度も『感謝』という言葉や『ありがたいね』という言葉を聞きました。
→『感謝』や『ありがたい』など、今まで一度も聞いたことがありません。
今や、弟に『おんぶにだっこ』状態だそうです。
経済面でも他のことでも弟に頼りきりの生活になって初めて周りが見えたのかな。
自分が、どれだけ周りに支えられていたのかを。
最後に電話を切る時、『ごめんね。1時間も話して』と言われました。
→母は、『よその人』や『父』に対しては『ごめんなさい』を言いますが、子供(弟と私)に対して『ごめん』とは言いません。
母は、よくヒステリーになり、喚き散らしたり、子供に向かって物を投げつけたりしていました。
普段は、

人に向かって物を投げてはいけないよ
と言っています。
ところが、
ヒステリーになると、目の前にある物を投げつけるので、いろんな物が飛んできます。
例えば、
・そろばん
・ノート
・カッターやハサミ
・定規
など、いろんな物が飛んできます。
その為、
カッターやハサミ、包丁など『危ない物』が収納されているか、常に確認するようになりました。
そんな母から、『ごめんね』を聞くなんて・・・
だけど

トラウマは、
そう簡単には消えない…
母には心が無い
母には
・人の心が無い
・他人の心が分からない
と、ずっと思っていました。
理由は
父は毎日、子供(弟と私)の背中を棒で叩いていました。私が叩かれない日は弟が叩かれていました。隣の部屋で。
夕飯時はいつも虐待の時間です。
居間でご飯を食べていると隣の部屋で弟が叩かれている音が聞こえるんです。
食欲なんてありません。でも食べないと今度は母から虐待されます。心を殺して食べていました。
チラッと母の様子を見たことがあります。
何事もないかのように平然と食べていました。
この様子を見る限り、母に心があるようには思えませんでした。
(エピソードの1つです)
今回は、ざっくりと書きました。
エピソードも抜粋した一部だけを載せました。
実親については、いずれ『ちゃんと詳細に』書くつもりです。
<あの家>で何が起こっていたのか?
父や母が子供たちに日常的に何をしていたのか?
やっぱり体調不良に
トラウマなのか、母と話すと体調を崩します。
以前よりはマシになったと思います。
電話で話している最中、頭がクラクラしていたけど何とか耐えました。
ですが電話を切った後、
やっぱり体調を崩しました。
激しい眩暈がして立っていることさえ出来なくなり、歩くこともままならず、ベッドに倒れ込みました。
以前は、動悸が激しくなりました。
今回は、激しい動悸はありませんでした。
以前よりマシになっています。
※このブログを書くにあたり、心を殺して書いています。
心を殺していても、鼓動が速くなりドキドキと動悸がします。
眩暈もします。頭が痛いです。
そんな状態でも以前よりだいぶマシです。
クローズします。
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